最近、X(旧Twitter)で「コミュ症」がトレンド入りしていた。
タイムラインを見れば、「わかる〜」「自分もそう」といった共感ポストが並び、リプ欄はまるで“喋れない自分たち”の慰め合い会場になっていた。
……でも、あえて言わせてほしい。
若い頃ならまだしも、大人になってまで「コミュ症だから…」は、正直もうキツい。
その“コミュ症”、ずっと言い訳にしてて本当に大丈夫か?
■ 「コミュ症」は、ただの“逃げ”になっていないか?
「コミュ症」とは、もともと“コミュニケーション障害”の略。
心理学や医療の文脈で使われる言葉だったが、今ではネットスラングとして「会話が苦手」「人付き合いができない」といった軽い意味で使われている。
よく見られる特徴はこんな感じだ:
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雑談が苦手
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初対面が怖い
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電話が無理
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自分から話しかけられない
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オンラインでは饒舌、リアルだと無口
こうした傾向の根底には、「失敗したくない」「変に思われたくない」という強い自己防衛本能がある。
だからこそ、“喋らない”という選択が、本人にとっては最も安全に思えるのだ。
■ 若いうちは、“喋れない”もキャラで済む
学生時代や20代前半なら、「人見知り」「陰キャ」も個性として受け入れられる。
「最初は無口だけど、慣れると面白い奴」──そんなポジションも成立する。
若さには、「未熟だから仕方ない」という前提がついて回る。
それが、喋れないことの“免罪符”として機能していた。
だが。
■ 大人の“喋れなさ”は、もはや社会的リスクだ
30代、40代になっても「自分、コミュ症なんで…」と逃げていたら、もう目も当てられない。
それは“個性”ではなく、社会的な機能不全だ。
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上司とまともに話せない
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会議で何も発言しない
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飲み会でも浮いたまま
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取引先とのやり取りを他人任せにする
これらは、「自分らしさ」ではなく、「使えない人材」という烙印になる。
そして年齢を重ねるほど、誰も指摘してくれなくなる。
静かに、だが確実に──あなたは“期待されない人”としてフェードアウトしていく。
■ 若い頃の“戦略”が、年を取ると“地雷”に変わる
「目立たない=無難」という若い頃の生存戦略も、
歳を取れば「存在感ゼロ」「信用できない」に変わる。
しかも厄介なのは、本人だけがそれに気づいていないことだ。
「自分はこれでいい」と開き直り、
“自己肯定”という名のぬるま湯に浸かっているうちに、
自分だけが成長のレースから取り残されていく。
■ 喋れなくてもいい。“伝える努力”をしろ
勘違いしてほしくない。
「陽キャになれ」「盛り上げろ」なんて言ってるんじゃない。
**最低限の“伝える力”**は、社会で生きるうえで必要不可欠なスキルだ。
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あいづちを打つ
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一言質問を返す
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相手の目を見てうなずく
そんな小さな積み重ねでいい。
会話は筋トレと同じ。最初はぎこちなくて当然。
大事なのは、「慣れていく意思」を持つことだ。
そして、どうしても今の職場や地域で自分を出せないのなら──
思い切って“環境を変える”のも、立派な選択肢だ。
コミュニケーションの壁を“自分のせい”にしすぎると、自信を失う。
合わない場所から離れるのは、逃げではない。“戦略的撤退”だ。
■ 「コミュ症だから」を、いつまで使い続けるつもり?
最初は自分を守るためのラベルだったはずの「コミュ症」。
でも今、それは挑戦から逃げるための盾になっていないか?
「自分はそういう人間だから」と言い訳した瞬間、
あなたの可能性は、自分の手で閉ざされていく。
情報も方法も、今は山ほどある。
変わろうと思えば、誰だって変われる時代だ。
いい歳した“喋れない大人”が痛い理由。
それは──もう誰もそれを“キャラ”として受け取ってくれないからだ。
そして最後に言いたい。
モジモジしてるおっさんほど、見ていられない存在はない。
年齢を重ねたなら、言い訳よりも行動を。
“喋れない”より、“伝えられる”大人のほうが──
圧倒的に、かっこいい。
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